明治三(一八七〇)年十二月というから、廃藩置県布告の半年近くも前に、土佐藩は『諭告』を発し、「爾後四民平均(=「平等」のこと)」を説いている。維新の中軸をなした他の薩摩藩、長州藩や肥前藩が、廃藩置県に頑強に抵抗し後に「士族の反乱」を起こす要因をなした当時としては、画期的なことである。廃藩置県と同時に開港場=神戸に藩の幹部まるごと進出してきた九鬼藩の統一行動にも比肩される、革命的大事件といってよいのではないか。つまり、土佐藩は「維新の元勲」にありながら、藩が率先して「官」より「民」の方向を示唆したのである。これが革命的大事件でなくてなんであろう。
この『諭告』の背景には、後述する坂本竜馬の「野人」思想が反映していることは明白であるが、薩長肥三藩の士族が廃藩置県に際して反政府争乱を起こしているのに対して、『諭告』に従った土佐藩の志士たちは、例えば以下のような道を歩むことになる。
運動挫折後の転向は別として、わが国初の立憲共和制提唱の自由民権運動創始者=板垣退助しかり、同=中江兆民しかり。幸徳秋水に至っては、中江家書生から発して岡山の片山潜とともにわが国最初の社会主義者となり、後に無政府主義者となっていく。また、岩崎弥太郎は、藩合弁の土佐開成商社を興し、廃藩置県後は完全民営の三菱商会を名乗り、後年の三菱財閥の基礎をつくった。つまり土佐の志士は、「維新の元勲」であるにもかかわらず、いずれも「民」風を貫いたのである。

