かくして、あの「顔なしデッサン」をはじめとする、素描・版画・水彩画などの、戦前の小磯作品が、戦後に伝えられたのである。もしも、桝井一夫さんと西村元三朗さん、このご両人の私利私欲を超越した大奮闘なかりせば、アトリエに残された数枚の油絵もろとも、第二次神戸大空襲によって、それらの作品は、もはやこの世に存在しなかったと考えられる。桝井さん西村元さんが、「あの、『顔なしデッサン』が戦後に伝わったのは、私らのお蔭」と、胸を張られた所以である。 国民だれしもが自ら生き延びることに精一杯だったあの当時に、国家的財産ともいえる小磯作品を、二十キロの山道をいとわず決死の覚悟で運ぶことに専念、自分のことはうっちゃらかしてでも、名作を守ることにだけ懸命になった「用人」たちがいた。これはもはや、小磯さんの日頃からの人徳の賜物というほか、ないのではなかろうか。
それにしても小磯さん、「戦争前、鉛筆で彼(竹中郁)を描きかけたデッサンが、戦災を受けたのにうまく助かって残っていた」だなんて、桝井さんや西村元さんのご苦労をお忘れなのだろうか。「人柄が鷹揚(おうよう)いうことは、世話を焼いた周囲の気配りなどには鈍感…」とは桝井さんの「小磯評」。存外それは、当たっているのかも知れない。
山本通の小磯アトリエが炎上する第二次神戸大空襲は、二人の画家の卵の「苦難の天王谷越え」から、わずか一カ月後の、昭和20(1945)年6月5日朝のことであった。この桝井一夫さんのお話は、さきに紹介した、昭和62(1987)年1月の『小磯良平展』美術講演会終了後、兵庫近美の応接室での茶飲み話にうかがったものである。

